競馬について考える
競馬にはふたつの側面がある。
- ギャンブルとして、投機の側面
- エンターテイメントとして、競馬自体を楽しむ側面
私は圧倒的に後者の人が多いのではないかと思っている。
多くの人がエンターテイメントとして競馬を楽しみ、増してそれを楽しむために、
多少の金額を賭ける。
だが、日本は競馬をギャンブルと見なし、敬遠する傾向がある。
しかし、「宝くじ」の方がギャンブルに近いと私は思う。
中央競馬の換金率は85%(100円あれば、85円を払い戻し金として充てる)である。
対して、「宝くじ」は50%である。
つまり、「宝くじ」は「換金する金額は少ないかもしれないけど、大金を狙えますよ」
という立派なギャンブルだ。
なのに、「宝くじ」は良くて、「競馬」は駄目となる。
それは、先入観がそのイメージを形作っているからだ。
先入観を捨て「ゼロベース思考」で考えなければならない。
経済動物としてのサガを持ったサラブレッド。
そして、それらが競い合うレースは美しくも儚い競争の世界である。
様々な馬がいて、それを育てる調教師と騎手がいる。
若くして華開き、散っていく馬がいれば、晩年になって開花する馬もいる。
レースに使われて成長していく馬がいれば、怪我に泣かされ、才能が活かせない馬もいる。
圧倒的な能力でねじ伏せる馬がいれば、戦略で勝ち、みなをあっと言わせる馬もいる。
レースに負けて悔しくて立ち去らない馬もいる。
スパルタで鍛える調教師がいれば、成長を考え、じっくり乗る調教師もいる。
厳しいコース練習一本で済ませる調教師がいれば、本数をこなして持久力をつけさせる調教師もいる。
華やかな騎手がいれば、勝率はいいけど地味な騎手がいる。
あるコースに強い騎手がいて、大レースになると詰めが甘い晩年二番手の騎手がいる。
新たな成長を求め、外国へ乗り込む騎手がいれば、国内で地道に成長していく騎手がいる。
人気で結果が出せなかった場合、騎手にはやじが飛ぶ。
騎手は敗因を本音で語りたいところを馬主や調教師、
そしてその馬の馬生を考えて発言をする。
この世界には、深い人間模様があり、心理がある。
競走馬としての活躍を終え、繁殖生活に入った馬達は自らの遺伝子を仔に伝承し、
走りを次の世代へ伝える。
私達は、仔の走りに親の面影を重ねる。
万全だと思われたレース前、最有力馬が故障することもある。
そこには、人生の縮図がある気がする。
年末の「有馬記念」では、500億円もの大金が動く。
そして、レース前の緊張感。
あのとき、日本全国でどれだけの人がレースの開始を楽しみに
待つのだろう。
楽しみにしたい。